文化の中の居心地悪さ I

「ある錯覚の未来」では、仮想の論敵に対して答える形でフロイトの主張が展開された。
「文化の中の居心地悪さ」の冒頭は、前著作へのロマン・ロランの感想を紹介するところからはじまる。

ロマン・ロランによれば、宗教性の本来の源泉は多くの人が共有する主観的な感情であって、それは何か無窮のものにつながっているような感覚、「大洋的」な感情なのだという。

これに対してフロイトは、自分には大洋感情などないと断言した上で、この感情についての分析にとりかかる。
われわれ自身の自我についての感情、自我感情についての考察である。

成人においては、外界と自我の境界は比較的はっきりしているのであるが、これは当然のことではない。恋愛や病的状態では、自我と外界の境界があいまいになることがある。
そもそも人間の根源的状態である幼児期には、自我は外界と融合したように感じられていたのだという。

つまり、われわれの今日の自我感情とは、かつて自我と環境とがもっと密接に繋がっていたのに対応して、今よりも遥かに包括的であった感情、のみならず一切を包括していた感情が萎えしぼんだあとの残余にすぎない。(20-72)

つまり大洋的感情とは、外界とつながってもっと多くのものを含んでいた昔の自我についての感情なのではなかろうか。

さてここからがおもしろいのであるが、成人してからの自我感情と根源的幼児的な自我感情とは個人の心の中で並存している。
われわれは外界と自己をきちんと区別しているのだが、一方では外界に対して自らとつながっているような親近感を感じているのである。

「並存」というより重なり合って存在している、と言った方がよいかもしれない。
ここのところはフロイト心理学における根本的仮定のひとつ、「心的なるものにおける保存」にまつわる問題である。

いわく、心の生活においては、一度形成されたものは何ひとつ滅びず、すべてが何らかのかたちで保存されており、たとえばその時期になるまで届く退行のような好的な機会に恵まれると、ふたたびおもてに現れてくることがある・・・。(20-73)

古いものがいつまでも滅びないだけでなく、古いものの上に新しいものが重なって存在している。
この様相を説明するために、フロイトは歴史的都市ローマの比喩をあげている。

歴史家がわれわれに教えるところによれば、最古のローマはパラティウムの丘の上の、柵で囲った入植地《ローマ・クァドラータ》〔Roma quadrata〕である。これに、個々の丘の上の居住地を統合した《七つの丘の町》〔Septimontium〕の時期、その後にセルウイィウスの城壁をきょうかいとする都市が続き、さらにその後、共和制の時代や初期帝政時代の各種の変遷を経て、アウレリアヌス帝が城壁をめぐらせた都市に至る。(20-73)

現実のローマは古い遺跡と新しい建物が混在して都市をなしているのであるが、そこに想像力を働かせて、古いものが滅びず新しいものと並存している有様を仮定してみる。

この部分の描写はローママニア・フロイトの面目躍如で、説明のための比喩を超えた詳細さである。

古いものと新しいものは出鱈目に重なっているのでなく、時間の順番と場所の連関をもって存在しているのである。

それはともかく、フロイトは多くの人に「大洋」感情なるものが存在することは認めているが、それを宗教的欲求の源泉とみなすことについてはきっぱり否定している。

感情は、それ自身が何か強い欲求の表現である場合にしか、ひとつのエネルギー源とはなりえないからだ。宗教的な欲求は、寄る辺ないという幼児の思いとそれが呼び覚ます父親への憧れから説明されるべきであり、これについては譲れないと思われる。(20-77)