文化の中の居心地悪さ II

ロマン・ロランのような学問のある者が、宗教がもはや信じるに値しないと薄々気づきつつもそれを未練がましく擁護することに対して、フロイトは手厳しい。

神の代わりに、人格を持たない影のような抽象的原理を出してくれば、それで宗教の神を救えると信じる哲学者どもに対しては、信者たちの列に紛れ込んで彼らと一緒に、主の御名をみだりに唱えるなかれ、と叱りつけてやりたい。(20-78)

さて、「世間一般の人々が信じる宗教」についての話に戻る。
ゲーテからの引用。

「学問と芸術を持つ者は、
宗教をも持っている。
無学無芸の者は、
宗教を持つべし。」
ゲーテ「温順なクセーニエン」第九集(『遺稿詩集』)より
(20-79)

ここでは宗教はある種の慰めものとして価値下げされている。
その前提には「人生はそのような慰めものを必要とする程つらいものだ」という世界観がある。

われわれが背負わされている人生は、あまりにも重く、あまりに多くの痛みや幻滅、解きようのない課題をわれわれに突きつける。この人生に耐えるのに、われわれは鎮痛剤を欠かすことができない。(20-79)

人生を耐えるための鎮痛剤として、フロイトは三種のものを挙げている。

自分の惨めなことなど眼中にないようにするだけの強力な気晴らし
惨めな思いをやわらげる代替満足
惨めさを感じないですむようにしてくれる麻薬

最初の「気晴らし」とは、仕事や学問などに熱中することである。
二番目の代替満足はフィクションの楽しみ。現代では映画やテレビ、ゲームなど、さまざまな代替満足が提供されている。
「麻薬」は、煙草やアルコール、現代なら向精神薬など、幅広い薬物による慰みである。

人生がどうしてそれ程耐え難いのかといえば、われわれ人間が多くを欲し、にもかかわらず現実世界がなかなかそれを与えてくれないからだ。

お気づきのように、人生の目標を設定するのは、もっぱら快原理のプログラムである。この原理は心的装置の働きを最初から支配している。この原理が目的にかなうものであるのは疑いえないが、このプログラムは、ミクロコスモスもマクロコスモスも含め、全世界と敵対している。(20-81)

人間が幸福を経験するのは極めて難しく、不幸を経験するのは遥かにたやすい。

苦しみは三つの方面から襲ってくる。
第一は、自分の身体から。
第二は、外界から。
第三は、他者との関係かから。三つのうちでこれが一番大きな苦痛となる。

人間が幸福になる方法。それには快感を目指す積極的なやり方と、苦痛を避けるための消極的なやり方がある。
まずは、一番積極的な方法。

あらゆる欲求を無制限に満足させるというのは、数ある生き方の中でも人の気をそそる点で図抜けているが、これは楽しみを優先して慎重を軽んじることを意味し、長続きせず、やがて報いを受ける。(20-83)

誰もがこうありたいと思う。しかしそこから競争が生まれ、足の引っ張り合いという苦痛な人間関係が生じる。「報い」は、同じように欲求を満足させたい他者からやってくる。
そこでこのような苦痛を避けるという、消極的な方法を考える。

自ら望んで孤独になったり他人から距離をとったりするのは、人間関係から生まれる苦しみから身を守るのに誰もが考える手近な方策である。容易に察しがつくとおり、こうしたやり方で得られる幸福は、平安の幸福である。(20-83)

外界に背を向けることで苦痛は避けられるかもしれないが、やはり寂しいものだ。
もう少し穏便なやり方で他者と協調しながら幸福を追求するという方法はないものか。

人間共同体の一員として、科学が先導する技術の助けを借りて自然に対する攻撃に打って出て、自然を人間の意志に屈服させるのだ。それだと、万人の幸福のために万人と力を合わせることになる。(20-83)

これらの面倒くさい手続きを省略し直接身体に働きかけて幸福を得ようというのが、麻薬による方法である。

幸福を追求し悲惨を遠ざけておくための闘争の中で麻薬の果たす役割は典型として重宝され、個人も集団も自分たちのリビード経済の中でこれに確固たる地位を認めてきた。(20-84)

もちろんこの方法には大きな欠点がある。

反面、この特性ゆえにこそ麻薬が危険で有害なのもまた周知の事実である。時としてこの麻薬のせいで、人間関係が巡り合わせた境遇の改善に費やされえたであろう大量のエネルギーがいたずらに空費されていくこともある。(20-84)

フロイトといえば、若い頃にはコカインの研究に熱中し、自らもそれを試していたのは周知のこと。
麻薬の魅力とその恐ろしさを身を持って知っていたに違いない。

現実世界で苦労なしには得られない快楽を麻薬によって苦労せずに得てしまえば、人はもはや現実には見向きもしなくなってしまうだろう。

薬に頼らないというのであれば、自ら欲動の蠢きに働きかけることによってこれを滅却してしまうという方法がある。
フロイトは東洋のヨガを例として挙げているけれど、これは少し理想化されているのかもしれない。解脱するというのは、そう簡単なことではない。

あるいはもう少し控えめに、欲動生活の抑制だけを目指すという方法もある。
しかしこれも苦労が多い割にいまひとつの満足しか得られないことは否めない。

自我による拘束を受けない奔放な欲動の蠢きが満足させられる場合、それで得られる幸福の感情は、馴致された欲動の満喫による幸福感とは比べものにならないほど強烈である。(20-85)

あるいはリビードの目標を、外界に受け入れられやすいものに移しかえるという方法もある。
欲動の昇華である。
具体例としては、芸術家が創造を通して得る喜び、研究者が問題を解決して真理を認識する喜びなどがある。
芸術家や研究者には誰でもなれるわけではないが、平凡な労働の中にも昇華の喜びはある。

人に生き方を説く上で、個々の人間を現実にしっかり繋いでおく方策として、労働を強調するのに勝る手はない。労働は少なくとも、人間を一片の現実の中に、人間の共同体の中に確実に組み入れる。労働にはナルシシズム的な要素や攻撃的要素、あるいはエロース的な要素といったリビード的要素のかなりの部分を、職業労働とそれに付随する人間関係に遷移できるという可能性が備わっている。(20-87)

空想生活の領域で、代理的な満足を得るという方法もある。芸術作品の享受である。
現代であれば、さまざまなメディアで展開されるフィクションや体験型ゲームもここに含まれるだろう。

現実と敵対し、現実社会の変革を目指すという方向性もある。
この目論見はほとんど成功せず、個人がこれに拘って妄想に至ることもあれば、宗教のような集団的な妄想へと発展することもある。

人生の中心に愛をすえ、愛し愛されることを求める生き方もある。
ここでいう愛は、直接的な性愛ではなく遷移されたリビードによる非性的な愛のことである。

人生の幸福を美の享受に求めるという生き方もある。自然の美しさを嘆賞したり、芸術作品を味わったり、学問によって得られる知識の美しさに感動したり、といったことである。

人は自分の素質や境遇に応じて、以上に列挙したような方法からいくつかを選択して幸福を追求するのであるが、むずかしい。
外界が、なかなか思うようにならないからである。

不都合な欲動資質を生まれつき持っている者にとっては、特にむずかしい。

こういう人に少なくとも代替満足を約束する、人生を処する最後の技法として浮上するのが、神経症の中への逃避であり、それは大概のところすでに年齢的に若いうちに行われる。されに後年に至って、幸福を求めた自分の努力が徒労に終わったのを思い知らされる者は、慢性中毒の快の獲得になお慰めを見いだすか、あるいは精神病という絶望的な反抗の試みを企てることになる。(20-92)

神経症になる代わりに、宗教という集団妄想に入るという方法もある。

いずれにせよ、これらは幸福を与えてくれない外界を捻じ曲げて自らの思いを優先させるということである。

人間の様々な幸福の可能性を考察するのであれば、ナルシシズムが対象リビードに対して持つ総体的な関係を検討することが欠かせまい。基本的に自分に頼るほかないという事態が、リビード経済にとって何を意味するのか、知りたいものである。(20-93)