文化の中の居心地悪さ VI

論をすすめるにあたって、フロイトは欲動理論の変遷についておさらいをする。

欲動理論は、常に対極性の構造をなしてきた。

最初の理論では、自我欲動対象欲動の対極。
自我欲動とは自己保存のための欲動であり、対象欲動は「リビード的」欲動であるとされた。

理論的発展は、ナルシシズム概念の導入によってなされる。
ここでの図式は、ナルシシズム的リビード対象リビードの対極である。
性欲動は本来自我に向いており、後になってから対象に向かう。

しかしそれでは欲動の種類は一種類になってしまい、それはまずい。

そこで後期理論では死の欲動という概念が導入された。
エロース(生の欲動)と死の欲動の対極である。

エロースは騒がしく目につき易いが、死の欲動は見えにくい。
死の欲動は、エロースとの混晶化(混じり合うこと)という過程によって、外に見える破壊性となるのである。

エロースと死の欲動の対極という観点から見ると、文化はエロースの働きを表現するものである。

今、これに加えて、文化とは、互いにばらばらだった複数の個人を、後には複数の家族を、さらには部族や民族、国をひとつの大きな単位へ、人類へと包括していこうとするエロースに従属する過程だ、と言っておこう。こうしたことがなぜ起こらなければならないかは、われわれには分からない。分かるのは、これがまさにエロースの働きだということである。(20-134)

ばらばらの個人を人類へのまとめあげていくこと、これが文化の目的である。
しかし、その過程は容易なものでない。
破壊の欲動がその邪魔をする。

文化とは、人間という種において演じられるエロースと死とのあいだ、生の欲動と破壊の欲動とのあいだの闘いをわれわれに示しているに違いない。この闘いは生一般の本質的内実であり、それゆえ文化の発展は、端的に、人間という種による生死の闘いと呼ぶことができる。(120-135)

文化によって示される生と死の闘い、それが文化闘争である。