文化の中の居心地悪さ V

文化の求めるところは、愛によって人間をより大きな集団に束ねることである。

二人の人間が性愛によって結ばれ満ち足りている状態。
これだけでは、いつまで経っても大きな集団ができないので困る。

そこで性欲を制限し、そうすることで生じる「目標を制止された愛」をより大きな集団作りのために利用するのである。

そこで問題となってくるのが、人間の攻撃性である。

人間とは、誰からも愛されることを求める温和な生き物などではなく、生まれ持った欲動の相当部分が攻撃傾向だと見て間違いない存在なのだ。(20-122)

攻撃性はすでに、子供がまだ幼いうち、所有というのがその原初の肛門形式を放棄するかしないかという時期に現れ、人間相互のあらゆる情愛的な関係や愛情関係のそこに澱を形成する。ひとり母親が自分の息子に対して持つ関係だけは唯一の例外かもしれない。(20-125)

最後の一文はなかなか意味深なのだが、それはともかく。

攻撃的な人間を束ねるのは容易なことでない。

人間の攻撃欲動に枠をはめ、それが発現するのを心的な反動形成によって抑えておくために、文化は持てるすべてを動員しなければならない。だからこそ、各種の方法を動員して、人間を集団に一体化させることや目標制止された愛情関係へ駆り立てることが画策されるのだ。(20-123)

攻撃性をなんとかする方法のひとつは、外に逸らすことである。

文化圏が比較的小さい場合、外部の者らと敵対することによってこの欲動を放出させてやることができる。(20-126)

こうして、部族と部族の争い、国と国の争いがおこり、それによってそれぞれの集団は結束することができる。