ある錯覚の未来 VIII

「文化と宗教の関係を根本的に修正・再検討する」とは穏当な表現で、はっきり言って神はもういらないということだ。

たとえば人はなぜ他人を殺してはいけないのか。
それは、自分が誰かを殺せば自分も誰かに殺されるかもしれないからである。
お互いに殺さないことを、合理的に取り決めたのだ。

もっとも文化の指図についての合理的な説明は、あくまで仮想的なものであって歴史的な事実とは考えにくい。
人間は感情に流されやすく、なかなか合理的には行動できないものだ。

太古の人間は互いに殺しあっていた。
そしてついに、群れのリーダーたる原始の父、原父を、皆で協力して打ち殺してしまったのだ。
これがフロイトのいう「原父の殺害」。

人間はもとより自分たちが暴力的な行為によって父を片づけたことを知っており、この冒涜の行いに対する反応のひとつとして、父の意志を以後、尊重することを自らに課した。宗教上の教義は、それゆえ、ある種の変形と変装とを加えた上でとはいえ、歴史上の真実をわれわれに伝えているのである。(20-48)

合理的な取り決めで済むのであれば最初から神の出番などなかったろう。
「殺してはならない」ということを実現するためにも、宗教的教義は歴史的に必要だったわけだ。

そんなわけだから、すでに宗教が必要なくなってもそれを合理的な取り決めに置き換えるのは非常に難しい。

ここでフロイトは、歴史における宗教の出現を、人間における幼児期の神経症になぞらえる。

宗教は人間全般の強迫神経症であり、幼児の強迫神経症と同様、エディプスコンプレクス、すなわち父親との関係に起因しているのではないか。(20-49)

フロイトがこの著作によって試みているのは、人類に対する分析治療であったのだ!