文化の中の居心地悪さ IV

文化がまさに欲動断念の上に打ち立てられているということ、このことを歴史的に再構成してみる。

フロイトの想定によれば、太古において人間の祖先は、首長である父の支配する集団、すなわち「原始の家族」を作って暮らしていた。

『トーテムとタブー』で、私は、この状態での家族から、兄弟同盟というかたちを取った共同生活の次の段階に至るまでの道筋を明らかにするのを試みた。父を打ち倒した際、息子たちは、力を合わせれば一人の者より強いこともあるのを知った。この新たな状態を維持するために、息子たちは互いに様々の制限を課さねばならなかったが、そういった制限の上にトーテミズム文化は成立しているのである。(20-109)

有名な「父親殺し」の話である。
ここで重要なのは、父親を殺すのが「息子たち」であるということだ。
一人の息子が父親を殺したのであれば、それは単なる政権交代、その息子が新たな父親になるだけである。
そうではなく、複数の弱い息子たちが強い父親を殺したのである。

一人の者が力によって支配する状態から、複数の者たちによって支配する状態への変換だ。
必然的に、首長が行使していた権力はトーテミズムとして棚上げされ、人々は互いに様々な制限を課すことになる。

ここで「様々な制限」というもののうちで、重要なのは性愛にまつわることである。

父親がいた頃には、彼が性的な愛を独占していた。
それが、父親殺しの後には一定の制限のもと皆に分配されることになった。

制限とは、近親相姦のタブーなど性愛関係を結ぶ相手を限定することである。
最終的には、性愛関係を特定の相手に限定するという婚姻制度が完成する。

そのような制限のもとで、直接的な性愛は「目標制止された愛」と呼ばれるものに変換される。
性的な目標を断念したかわりに、制限のない対象に広く向けられる情愛である。
友愛、兄弟愛、ひいては人類愛、世界愛といったものがある。

家族を形成した愛は、直接的な性的満足を断念しないもともとのかたちにおいてであれ、また目標制止された情愛という変容したかたちにおいてであれ、文化の中で作用し続ける。いずれのかたちでも、愛は、かなりの数の人間を相互に結びつけるという機能を継続している。(20-112)

人々を結びつけて集団を作るのは、愛の力だ。

直接的な性愛は、男と女を結びつける。

そこから家族が生まれ、親子愛、兄弟愛、それらによる家族愛が、強い家族の絆を作る。

しかし、そこで留まらない。
文化は、個人がもっと大きな共同体に愛によって結びつくことを要求するようだ。

友愛、共同体への愛、国家への愛、人類愛。

より大きな共同体に帰属することに対して、最初の集団であった家族は抵抗をする。
結束の強い家族ほど閉鎖的になり、そのメンバーは共同体に入っていくことが難しくなるのである。

家族というのは、系統発生的には一段古く幼年期にしか存在しない共同生活の型式だが、これは後に獲得される文化的な共同生活の形式に取って代わられることに逆らうのである。(20-113)

家族の結束が文化に対抗する、というこの流れはわかりやすい。

家族を守ろうとするのは女たちであり、男たちは外へ、文化の仕事を担うために出て行くのである。