ある錯覚の未来 VII

この章の冒頭では少し寄り道があるのだが、これが興味ぶかい。
文化の中に宗教以外にも錯覚があるのではないか、という疑問である。

われわれの文化の中での異性関係もまた、性愛に関する一連の錯覚のせいで曇っているのではないか。(20-37)

おそらく異性間恋愛や結婚制度にまつわる錯覚のことを指しているのだろうなあ、といろいろ想像される。
話題を広げすぎるのは手におえない、と宗教に限定された話題に戻ってしまうのだが。

さて、論敵は「宗教が錯覚である」というフロイトの主張を一部認めつつも、それを大衆に知らせるのは危険だ、と言いはじめる。

考古学的な関心はもちろん賞賛に値します。でも現に生活している者の居住地の下を掘ったために、そこが陥没して人々が瓦礫の下に生き埋めになるようなら、発掘などしないものです。(20-38)

しかし、フロイトが指摘するずっと以前から宗教の化けの皮は剥げてきているのだ。
宗教の空洞化、権威の失墜は、放っておいても進んでいくであろう。

かくなる上は、これら危険な大衆を厳重に押さえ付け、精神的な覚醒に繋がるあらゆる機会から彼らを遮断するべく目を光らせるか、それとも、文化と宗教の関係を根本的に修正・再検討するか、そのどちらかしかないのである。(20-44)

もちろん目指すのはべきは後者の試みである。