ある幻想の未来 II

一貫した表現が望ましいから、ひとつの欲望が充足されえないという事実をわれわれは不首尾Versagungと呼び、この不首尾を固定する仕組みを禁止Verbot、そしてこの禁止が招き寄せる状態を不自由Entbehrungと呼ぶことにしよう。そうなると、次の課題は、不自由の中でも、万人を見舞う不自由と、そうではなくて単にある集団や階級、のみならず個々の人だけを見舞う不自由とを区別することである。(20-9)

われわれが普段使う「不自由」は後者の、特定の個人だけを見舞う不自由にあたる。例えば、仕事が忙しくて自由な時間がないっていう場合、仕事をせずに遊んで暮らせる身分もあるというように。

では「万人を見舞う不自由」とはなにかといえば、それは最古の不自由であり、それを禁止されることによって人間が動物的な原始状態を脱したような、そういう不自由であるという。

具体的には、

近親相姦、
食人、
殺人、

を禁止されるという不自由のことである。

このあたりが、フロイトについていけなくなるかどうかの分かれ道であるかもしれない。
私も、近親相姦と殺人はいいにしても、食人はどうもぴんとこない。
ただ、人間の食欲がこれ程旺盛なのは、単なる個体保存以上のものが何か底にあるような気もするのであるが。

ともかく、人間には文化によって禁止されたいろいろな不自由がある。
いちいち禁止されて不自由に感じていてはつらくてやってられないよ、ってことでこの禁止は内面化されることになる。

外的な強制が、心の特別な審級である人間の超自我によってその命令圏内に取り込まれることで次第に内面化されてゆくのは、われわれの発展の方向に沿うものである。(20-10)

超自我というのは、心の中にあって自らを律するもの(審級)のこと。
詳しくは、『自我とエス』などの著作を参考のこと。
超自我によって人は自らを律し、文化から強制されることはその分少なくなるわけだ。

この超自我の強化とは、極めて貴重な心理学上の文化遺産であり、超自我の強化を経た人は、文化の敵対者から文化の担い手へと変身する。(20-10)

文化の担い手となる人物とは、その文化の中で比較的多くの恩恵をこうむっていて支配的な立場にいる人であろう。
これに対して、不遇な地位にあり文化から強制される立場の人は、これに反発して、つまりは反体制的になる。

こういった、文化への敵対をうまくそらすための仕組みがいくつかある。

ひとつは、文化理想。国でいえばナショナリズムというようなこと。

文化理想から得られるナルシシズム的な満足感は、ある文化圏の内部で生じる、その文化に対する敵意をうまく牽制する力のひとつである。人一倍この文化の恩恵に浴している階級だけでなく、抑え込まれている者たちも、この文化圏の外にいる者たちを軽蔑してよいという権利を得ることによって、自分の文化圏の内部の不遇に対する代償を手にするのであり、そのかぎりでは、彼らもまた文化の恩恵にあずかっている。(20-13)

フロイトローマ市民としての誇りを例にあげている。
当時であれば、ナチズムの台頭といったことも思い浮かぶ。ユダヤ人であったフロイトが、その犠牲となったことは周知のとおり。
文化理想は対外的に危険な面をもっているが、異なる文化が独自性を競い合いつつ存続してきたことの要因でもある。

文化からの恩恵のもうひとつは、芸術である。

ずいぶん以前に明らかにしたように、芸術は、今なお痛切に感じられる最古の欲望断念に対する代替満足を与えるものであり、それゆえこの断念のために捧げられる犠牲を宥める上で芸術に勝るものはない。(20-13)

ここでいう芸術とは、演劇など個人の空想を具象化するようなものをさす。
現代であれば、映画やゲームなど、娯楽作品も広く含まれるであろう。

そして、文化への敵対をそらす仕組みの最後のもの、本論文の主題となるのが宗教である。

ひとつの文化が持つ心的な財産全体の中で、ことによると最も重要ではないかと思われる点についてまだ論じていない。その文化に備わる、最も広い意味での宗教的な表象、あるいは別の言葉で言えば、文化が持つ錯覚がそれである。「錯覚」という言葉を用いるのについての弁明は後段に委ねたい。(20-13)