文化の中の居心地悪さ III

人間が幸福になるのは何故こうも難しいのか。
この問題に取り組むうちに、ついに本著作の主題ともいえる命題が現れる。

この可能性に取り組んでゆくと耳にするひとつの主張は、実に驚くべきもので、しばらくこれについえ検討しておきたい。この主張によると、われわれの悲惨な状態の大半は、われわれのいわゆる文化のせいであり、もしわれわれが文化を放棄し未開の状態に戻るなら、遥かに幸福になるのだそうだ。(20-94)

我々が幸福になるのを妨害していたのは文化だった!
もちろんフロイトがこの本末転倒な話に賛成しているわけではない。
ただ多くの人々がそう感じて文化に敵意を抱いているというのは、なんだか納得できる。

なぜ人々はそのような敵意を文化に抱きがちなのか。
それを考察するためには「文化とはなにか」という本質から明らかにする必要がある。

文化の定義としては、前の著作『ある錯覚の未来』の言及が繰り返されている。

私はかつて、われわれの生活が動物的な先祖の生活と異なるのは、自然から人間を守り、人間相互の関係を律するとい二つの目的に資するある種の活動や制度のおかげであり、「文化」という言葉はそういった活動や制度の総体を指す、と述べたことがある。(20-97)

「自然から人間を守り」という部分は比較的わかりやすい。
文化によって人間は、自然を支配し、他の動物と違う発展を遂げてきた。

歴史的にみればそれは、
 道具の使用
 火の馴致(じゅんち)
 住居の建設
の3点に集約され、それらが発展したのが現在の姿である。

しかし文化の特質としては、これらだけで十分とは言えない。

美と、清潔と、秩序。

以上3点は、文化的と呼ばれる社会では実用的な必要以上に重視されている。

さらに、
知性や学問、芸術、
そして、宗教活動などの高度な心的活動。

これらは文化が文化らしくあるために重要なものである。
しかし、それらは人々に恩恵を与えるだけでなく彼らを律する側面も持っている。

そこで、「人間相互の関係を律する」という文化の第二の目的が重要になってくる。

個人がそれぞれ勝手なことをしないようにその自由を制限する、ということだ。
文化のこの部分こそが、人々の反発を招いていることは容易に想像される。

文化の第一の目的(自然を支配し人間を守る)と第二の目的(人間相互の関係を律する)は、どうやら根本的に不可分なようだ。

個人の自由は文化の賜ではない。この自由が盛栄を極めたのはいかなる文化もまだない時代であるが、もとより当時の個人にはこれを守るすべなどほとんどないに等しいから、自由にはまた大概何の価値もなかった。文化が発展すると、自由は制限されるようになる。(20-104)

文化がまだない時代、個人は思い思いに振舞うことができた。
もっとも、これは動物的なルールのもとで、ということだ。それぞれの力量に応じて、縄張りとか群れでの序列などには従う必要がある。

道具の使用は自然に対して個人を強くしたと同様、他の個人に対しても強くした。従来のように個人が思い思いに振舞ったとしたら、それこそ殺し合いになってしまう。

そういう権力闘争の時代を経て、集団による支配すなわち「共同体の権力」が出現した。

人間らしい共同生活は、多数の者が集まり、それで出来た集団がどの個人よりも強く、またどの個人に対しても結束して対抗するときに初めて可能となる。このような共同体の権力は、今や「法」として、「粗野な暴力」の烙印を押された個々人の権力に対抗することになる。個々人の権力が共同体の権力に取って代わられることが、こと文化に関しては決定的な歩みである。(20-104)

理屈としてはもっともだ。しかし気持ちとしては収まらない。
人間は、文化による制限に対して、あくまでも自由を追求したいのである。

人類の格闘のかなりの部分は、この個人的要求と集団の側からの文化的な要求とのあいだに、目的にかなった、すなわち双方にとって納得のいく幸福な妥協点を見いだすという、ほかに例のない課題に傾注されてきた。(20-105)

「妥協」というのは、フロイトの個人心理学においても重要な考え方であった。
対立した力と力がぶつかりあい、双方にとってそこそこに良いところに達することである。
妥協は、暫定的で流動的である。

個人の側からみると、それは欲動の直接的な表現は断念しつつも文化に許容され推奨される線にそっての表現を試みることである。

そのやり方は個人によって異なり、「性格特性」と呼ばれる。
例えば、極端な倹約、整理好き、きれい好きを特徴とする「肛門性格」がある。

欲動の目標を、文化に許容されるものに変換することを「昇華」と呼ぶ。

欲動の昇華は、文化発展に備わるとりわけ顕著な特質であり、学問や芸術、イデオロギーなどの高等な心的活動は、昇華によって初めて文化生活の中でこれほどに重要な役割を果たしうるのである。第一印象に従うと、昇華とはそもそも文化によって強いられた欲動の運命である、とつい言ってみたくなる。(20-106)

文化の中で生きる我々は、もはやむき出しの、直接的な欲動の表現などなしえない。
欲望として意識されるものは、すでに文化を前提として、制止されたり方向を逸らされた欲動なのである。

昇華によって、文化のために断念された欲動は文化の役に立つものに変換される。
文化の第一の目的にみえた「自然を支配し人間を守ること」にしても、それを達成するためのエネルギーはまさにそこから来ていたのである。

最後にもうひとつ、最も重要と思われる第三の点であるが、文化とはそもそも欲動断念の上に打ち立てられており、様々の強力な欲動に満足を与えないこと(抑え込み、抑圧、あるいは他にも何かあるかもしれない)こそがまさに文化の前提である。(20-107)

欲動断念は、そもそも文化の大前提であるというのだ。
逆説めいているが、非常におもしろい。

これこそが人間の文化を大きく発展させた原動力であり、同時にまた個人が文化に抱く敵意の根源でもあるのだという。