ある錯覚の未来 V

宗教上の教義がいかに不合理なものであるか、フロイトはユーモアを交えて暴き立てていく。

宗教が語っている内容が信じがたいものである、ということは古くから人々が感じていた。
にもかかわらず、あの手この手で宗教上の教義は守られてきた。

第一の試みは教父の《不条理ゆえにわれ信ず》〔Credo quia absurdum〕という信条である。(20-30)

この言葉は、二世紀後半から三世紀初頭の教父テルトゥリアヌスが語ったものとされている。
この旧い時代からすでに、キリスト教の教義は不条理なものと感じられていたということでもある。

この言説自体不条理ともいえるが、それでもなにか説得させるものがある。
信じがたいことだからこそ、信じる価値がある。
理屈ではなく、信仰である。
宗教的信条について、繰り返し主張されてきたことだ。

第二の試みは「かのように」哲学の試みである。(20-31)

これを表明したのはハンス・ファイヒンガー(1852‐1933)というドイツの哲学者であった。

宗教的な教えなど多くの人はあまり信じていないが、それでもそれが正しい「かのように」ふるまうことが大切である、という考え方である。

「かのように」哲学は、現代における宗教に対する大多数の態度をうまく言い当てている。
聖典に書かれていることが文字通りの真実とは思わないが、皆もそのつもりで尊重している。
宗教的な権威というものは、世の中の秩序を維持するために大切ではないのか、というわけである。

これら二つの「試み」は、なかなか説得力のあるものである。
そして、それほど不条理な宗教上の教義がこれほど長きにわたって力をもってきたという実績がある。
無神論的主張は、フロイトのずっと前からあるし、現在までの状況を見ても宗教は影響力を弱めつつも決して力を失っていない。

これらの教義の内的な力はどこにあるのか、それらが、たとえ理性によって認められなくてもこれほどの影響力を持つのはどのような事情に拠るのか、これを問わなくてはならない。(20-32)