ある錯覚の未来 III

一方には人間の力ずくの試みをすべて嘲笑うかに見える自然の猛威、たとえば揺れ動いては引き裂け人間の営みや人間の手になるものすべてを多い尽くしてゆく大地、ひとたび氾濫すれば一切を押し流し呑み込んでいく水流、すべてを吹き飛ばしてしまう嵐がある。(20-15)

フロイトが日本の震災や津波を予言したのだろうかと神秘的な気にもなるのだが、もちろんそんなことではない。

天災は忘れた頃にやってくる。
文化によって自然をかなり征服した人間が「もう自然なぞ怖くないぞ」と奢り高ぶったころにやってくる。

もっとも、人間が奢り高ぶるのも天災によって自然の厳しさを再認するのも、文化がはじまって以降のことであったろう。
もともと自然は問答無用であって、そこで生きる動物が異をとなえることはない。

文化によって自然の一部を制御し食事や安全を確保できたことは、人間にとって大きな成果だった。
しかし初期の文化はとりわけ不完全で、自然によって簡単に破壊されてしまう。
こんな文化、ほんとに役立つのか。

文化にとって重要な課題は、人間を納得させることだった。
納得させる方法は、自然の擬人化。これが宗教的表象の起源である。

この擬人化にはひとつのモデル、模範がある。

とういうのは、人はすでに一度、小さな子供として両親に対する関係においてそのように寄る辺ない状態にいたことがあり、そこでは両親、とりわけ父親は、当然、恐るべき存在でありながら、またその頃にもすでに知っていた危険から自分を必ずや守ってくれる存在でもあったからだ。(20-17)

寄る辺ない幼児にとって、厳しさと、やさしさをもった存在。
それが両親、とりわけ父親だったわけだ。
なぜ、「とりわけ父親」なのか。
母親だと、厳しさが足りないのかな。

ともかく、そういった両親(父親)像を模範として宗教的表象がつくられた。
神々の登場だ。

自然の脅威を払い除けること、とりわけ死という局面で現れる運命の残酷さとの和解を図ること、さらに文化的な共同生活が人間に課す苦痛と不自由とを補償すること、これらの三重の課題を神々は担い続けている。(20-18)

宗教的表象=神々には、3つ(または2つ)の課題が課せられている。

第一、自然の脅威を払いのけること。
これはもちろん心理的にということで、実際に危険が減るわけではない。
地震は神の怒りであるとか、気候がよくて豊作だったのは神の恵みであるとか、そもそもこの世界は神が創造したのだとか、そういう自然についての解釈のことである。

第二、死という局面で現れる運命の残酷さとの和解を図ること。
これは第一の課題の延長にもなるけれど、死によってもらされる悲しさ、残酷さ、自分が死ぬことへの恐怖をやわらげようとするために、天国や地獄など「死後の世界」を提示することでしょう。

第三、文化的な共同生活が人間に課す苦痛と不自由とを補償すること。
「殺してはいけない」「盗んではいけない」と、道徳・倫理にあたる課題のこと。それが単に強制されるのではなく、そのような生き方が神の思し召しにそった価値あるものであるという満足感をも与えるっていうところが大事なのだろう。

これら3つの課題は、重なりあい相互に影響しあっている。
そして、おそらく歴史的にはこの順序で発展してきた。

現代では、第一の課題は大部分自然科学による世界観に置き換えられた。
第二の課題については、自然科学はなにも教えてくれない。
第三の課題は、宗教を基盤として作られた法律や社会的マナーによって整備されている。