ある錯覚の未来 I

本章の冒頭で述べられる文化についての問題提起は、3年後の著作『文化の中の居心地悪さ』へとつながっていく主題である。
まずは、フロイトによる文化の定義。

私は文化と文明とを切り離すことには反対であり、人間の文化ということで、人間の生が自分に備わる動物的な条件を脱し、動物の生から区別される所以の総体のことを考えている。この人間の文化には周知のように二つの面が認められる。そこには、一方では、人間が、自然の諸力を支配し諸々の人間的な欲求を充足させるべく、自然から様々の富や物資を奪い取るために獲得してきた知識と能力の一切が包摂されるが、他方では、人間相互の関係を律する、とりわけ手に入る物資の分配を律するのに必要な仕組みのすべてが含まれる。(20-4)

文化と文明の区別をしないというのは、そこに実質的な違いがないということだろう。
Wikipediaによれば、文明とは「人間が創り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す」とのこと。しかし何が高度であるかということには主観が入りがちであり、文化と文明を区別する根本的な理由というものはない。

「文明の曙」において、我々の先祖は道具を使い協力して狩猟をしたり、農耕を開発して生産を伸ばしてきたりしたという。「自然から様々の富や物資を奪い取るために獲得してきた知識と能力」とは、そういうことだろう。

しかしもうひとつ重要なのは、自然から得た富をいかに分配するかとういう問題である。そのために、「人間相互の関係を律する仕組み」とういうものが必要になるわけだ。

文化のこの両方の方向は互いに独立しているのではない。というのも、第一に人間相互の関係は、実際に手近にある富で可能となる欲動充足の程度に深く影響されるからであり、第二に個々の人間自身も、他人からその労働力を利用されたり、性的対象とされたりする以上、一個の物資として他人と関係することもあるからで、第三にまた個々人一人ひとりは、広く人類全般の関心であるはずの文化には潜在的に敵対しているからである。(20-4)

自然から富を得る技術と、人間相互の関係を律する仕組みは、無関係ではない。
その理由を、フロイトは3つあげている。

第一の点は、例えば食料が乏しいか豊かに手に入るかで人間関係の有り様が変わってくるといったことだろう。

第二の理由には、いよいよフロイトらしい視点が入ってくる。
自然から得られた富の配分と言われてまず思い浮かぶのは、食料のことだ。誰が一番うまいところを取るかで喧嘩になることもあろうが、それでもまだ単純な話だ。
むずかしいのは、人間そのものが直接欲求の対象になる、性の領域である。原始の人類は食料の獲得と分配だけに熱心だったのか、いやそんなことはなかろう。性にまつわる事柄は、人類の遠い祖先にとっても大きな関心と争いの的だったに違いない。

第三の点は、本論文の主題であり、次の『文化の中の居心地悪さ』にもつながる重要なテーマである。

奇妙なことに、人間は孤立しては生存できないのに、共生を可能とするために文化から求められる犠牲についてはそれを厄介なものと感じるのだ。(20-4)

ここのところは、実感としてよくわかる。
人間とは恩知らずなもの。文化のおかげでより安全に快適な生活ができるようになったはずなのに、その文化から強制されることを嫌がるのだから。

誰もが潜在的には文化に敵意を持っていて、一部の人は実際にその敵意を行動にうつし文化を破壊しようとする。だから文化は、これらの敵意に対して身を守らなくてはならない。
ここで文化を擬人化して述べているけど、実際にそれを担っているのは人間なんですね。

文化に敵対する人間と、文化を守ろうとする人間がいる、ということ。
もちろん一人の人間の中にも、文化に敵対する気持ちと、文化を守るために担っている役割とが混在していることだってあるだろう。いや、大抵の人はそうだ。

潜在的で穏やかな文化への反感というと、「昔はよかった」というのがある。
自分の幼少期の生活が懐かしく思い出されるというだけでなく、文明化の遅れていた昔の生活をことさら美化する傾向である。
「技術は進歩して生活は便利になったが、人間は本当に幸せになったのか」といった疑問もこの類のものだ。
実際に田舎に行って自給自足に近い生活をはじめる人もいるが、多くの人は憧れるだけで都会の便利な生活を手放せないようである。

人類がこと自然の支配に関してはたえず進歩をなし遂げ、今後もこれまで以上に大きな進歩を遂げるであろうことが期待されるのに対して、人間相互の関係や関心の調整に関してはそれに似た進歩をしかと認めることができず、今ふたたびそうであるように、どうやらいつの時代にあっても多くの人間が、自分たちの獲得してきたこの一片の文化とはそもそも守るに値するものであるのかと自問してきたらしい。(20-5)

技術の進歩というのはわかりやすい。旧い物より新しい物がすぐれているのは明らかで、誰もが納得する。
しかも確実に進歩している。カメラ、ステレオ、携帯電話、パソコン、年々進歩して後戻りすることはない。最新のものが最高である。

ところが、富の分配、人間関係の調整というものを取り決めた、社会制度や政治システムということになると、進歩はしてるのだろうが、いきつもどりつではっきりしない。
現在のシステムも、とても最高とはいえず、不完全で不公平なものに見えてしまう。

こうして人は、文化とは、権力と強制の手段を領有するすべを心得た少数の者が、嫌がって逆らう多数の者に押し付けたものであるとの印象を覚える。(20-5)

こういう印象は、もしかすると文化がいくら進歩しても拭い去れない、本質的なものなのかもしれない。

要するに、文化の仕組みはある程度の強制によってしか維持されえないのは、人間の中に広く蔓延するこの二つの特性、すなわち人間は自発的に労働しようという気がなく、彼らの情熱に対しては論を説いても無益であるという特性のせいなのである。(20-6)

後の方の特性が少しわかりにくいが、人間は理屈よりも感情で動くものだからいくら正しいことを説き伏せてもいやなことはやらない。そういう人間を動かすためには、説得ではなくて強制するしかない、ということだろう。

これに対してフロイトは、ひとつの反論を想定している。
曰く、上記の性質は人間の根本的な性質ではなく、文化が不完全なために生じたものであろうと。
幼少期から愛情をもって育て、文化の恩恵に浴して成長した人間は、文化のために自発的に働く人間になるのではないかと。

この意見も正論であり理想論でもある。
ただ、すぐに実現するのは困難だし、完全に実現するのはおそらく無理である。
ひとつの理想としてめざされては来たと思うが、現代においても文化における強制がなくなっていないのは周知のとおりである。

この理想主義で思い出すのは社会主義のことであり、フロイトも触れている。

それゆえ、現在、ヨーロッパとアジアにまたがる広大な国で試みられている壮大な文化実験について判断を下すつもりは全くないということをはっきり明言しておきたい。


と、明言しているものの、文章の流れからいってフロイト社会主義に懐疑的であったことは容易に読み取れる。「壮大な文化実験」という言い方からして皮肉っぽいし。

この実験が失敗に終わったことは、歴史が示すとおりである。